「40年後の世界」:2052年

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40年後、どういう世界になっていると思いますか?

どういう世界であって欲しいですか?

 

環境に興味がある人は、一度は聞いたことがあるであろう、70年代にローマ・クラブが出版して環境への世界的な動きが高まるきっかけの一つとなった、「成長の限界」。

その出版から40年経った今、作者の一人が今から40年後の予報を試みる。

それがこの本で、私はいままさにこの本を、授業の一環で読み進めている。

 

40年後、世界はどうなっているだろうか?

むしろ、どういう世界になっていてほしいだろうか?

 

ページをめくりながらも、ふわふわと頭が想像の世界にいっていることに気づく。

端的に言うと、この本はそこまで悲観的ではないけれど、楽観的とは決して言えない内容になっている。

世界が壊滅するわけではないけれど、「間に合わない」という結論を私たちに突きつける。

例えば、気候変動・地球温暖化関連で、気温上昇を産業革命前と比べて+2℃までに抑えなければ ‘Tipping point’、つまり後戻りができない限界点に達してしまうという国際的な理解がある。

せめてその範囲内におさめようと、温室効果ガスの削減の制度を整えるために、政治に働きかけたり、国際交渉に向き合ってる人たちがいる。

私のクラスメートの中にも、温暖化関連で意欲的にいろいろ勉強したり動いている子たちがたくさんいる。

でも、+2℃以内におさめることは無理だ、という結論に筆者は達してしまう。

そもそも、この+2℃以内という目標も、すでに世界的に排出している温室効果ガスの状況だけで、温暖化の被害はある程度もはや防げない状況に陥っているけれども、+2℃以上に達してしまうと、さらに壊滅的な状況になるという、(そもそもわりとネガティブな)限界点の目安だという。

もっともっと、地球はあたたまってしまう。

海面上昇も、温暖化の影響による台風などの災害の大型化も、干ばつや洪水の高頻度化も・・・もっともっと壊滅的になる。なんて憂鬱な予報の結果!(>_<)

 

先日ポーランドで行われたCOP19、つまり気候変動に関する枠組みを話し合う国際会議でも、各国の利害が対立して有効な合意に達することができず(各国が自主的に各々目標を設定する、という消極的な合意)、行き詰まっている感はぬぐえなかった。

かくいう日本も、「2005年比3.8%減(1990年比3.1%増)」の新目標を打ち出して、途上国やEU(欧州連合)から名指しで非難されたらしい。(朝日新聞2013/11/28:小さな進展、15年につなぐ COP19閉幕 http://t.asahi.com/dckq )

この国際交渉では、温室効果ガス排出の「歴史的責任」というのがキーワードとなりつつあって、歴史的に先進国が多量に排出を続けてきたから、より責任があるという主張を途上国側は続けている。

 

最近の気候変動関連の動きのおさらいに話がそれてしまったが、実はこれも改めて最近課題をきっかけに調べ直したもの。

恥ずかしながら、私もいつからか温暖化関連のニュースをちゃんと見ないようになってしまっていた。

日本ではなんとなく「またか」と言った風潮があるのだろうか。あるいは、「温暖化なんて、本当なの?」といった懐疑的な見方がなんとなく空気に漂っているのだろうか。

認知度は高いのに、それに向かって政治や企業が本気で取り組んでいるかというと、そうではなさそうだ。うーむ

 

 

今回の本で、面白いと思う反面一番グサリと突き刺さった指摘は、民主主義とサステナビリティの関連について。中国は、再生可能エネルギーにどんどん投資したり、植林を意欲的に行っていたり、ものすごいスピードで環境やサステナビリティ、長期的視野に向かって取り組みを行っているのだという。中国という、強いリーダーシップのある国家だからこそスピーディに色々できる。民主主義という視点からは、実に皮肉的だと筆者は指摘する。

民主主義の国家は、民衆が「短期的視点(短期的利益)」から脱せれず、しかも変化を起こすには遅すぎて、必要なタイミングで必要な決断をしていくことができない、と言う。

 

「そんなことはない!私は民主主義を信じている!!!!!」

と思わず口に出して訴えてみた。

もちろん、彼は「だから民主主義を捨てよう」とは言わない。だけど、「確かに」と内心ぐさりと来る何かがある。

そんな中で私たちはどうやって前に進んで行けばいいのだろうか?

今のままでは、今の状況から打ち出した「予報・予測」では、私たちが見たい未来ではない未来が、やってくる。

 

大好きなしずかちゃんではなく、じゃい子と結婚する「未来のアルバム」を見せつけられたのび太くんも、こんな気持ちだったのだろうか。

なんだかみじめのような、こんな未来は見たくないという気持ち。

 

40年後、できれば私は生きてその世界を見届けていたいけれど、

そのとき私は、

「やっぱりあの時読んだ本が正しかった。」

と言っていたくない。

もっとひどい状況にも、もちろんなってほしくない。

幾度となくぶちあたる壁に、今回もまたぶちあたることになった。

何をやっても変わらないように感じられる大きな世界と、小さく無力な自分。

 

けど負けてたまるか。

 

そういえば、話は少し変わって・・・

 

先日の投稿(環境経済学:「環境への影響を計算する」)でも軽く、GDP一辺倒ではなく、それを修正して計算する動きについてふれたが、今回の「2052」という本の中でも、それとはまたちがう動きについてふれられている。

フランスのStiglitz, Sen(←アマルティア・セン)らによる報告書(2009)で、マクロ経済学者である筆者たちだが、GDPを唯一の指針とすることは様々な弊害を起こすため、Well-being (注:福祉・福利・満足できる生活状態などと訳される)に重点をうつすことが提唱されている。

経済を中心に見据えることが必ずしも悪いわけではなく、「経済」の捉え方や、指針がまちがっているのかも?

GDPというコンセプトが生み出されたのは1930年代で、政治家によって政治指針として普通に使われだしたのは1960年代。1940年代に実務的な計量体系をつくり、50年代に定期的な計量のための制度が作り出され、30年かかってようやく国単位、国家レベルでGDPが報告できるようになった。

ここまで来るのに30年かかったということ。

では、次の30年の中で、しかもなるべく早く、どういう指標や指針をつくって、何を目指していくのか?

考えることはいっぱいありそうだけど、希望がないわけじゃなさそうだ。

 

あなたは、40年後の世界は、どんな世界であってほしいですか?

 

 

 

 

参考・引用文献

Randers, J.  (2012). 2052. White River Junction, VT, USA: Chelsea Green. 

Stiglitz, J.E., Sen, A., Fitoussi, J. (2009). On the Report by the Commission on the Measurement of Economic Performance and Social Progress (2009). SSRN Electronic Journal. doi:10.2139/ssrn.1714428

 

 

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